超10blog香川県では、「超10(長寿)運動」=「健康で元気に長生きしよう運動」を、県民が力を合わせて実施します!

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2014.12.11 Thursday | category:-

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  団塊の世代の人が防災対策に力を発揮しようと先月この記事に書きました。

ところがすでに東京や東北で活動を始めている人々がいたので紹介したいと思います。


 東北沿岸部に300kmの防潮林を作ろうと呼びかけている宮脇 昭氏、「どんぐり育て隊杉並」を結成し、生き甲斐つくり、孤立予防もかねて東京の真ん中でシイ、カシ、タブの苗木を植えて防火林を作る活動等です。このどちらも30年40年かけて継続する息の長い取り組みです。すばらしいのは、防災対策が自分の子孫のために活動するという高齢者の生き甲斐にもなり、さらに孤立予防、さらには健康作りにもなるという一石三鳥にも四鳥にもなる活動であるところです。


 宮脇昭氏(横浜国立大学名誉教授)について以下HPより引用します。

 震災直後より被災地で現地調査を行い、いち早く「いのちを守る森の防潮堤」の必要性を指摘、 東北沿岸部に300kmの防潮林を作ろうと呼びかけ協議会を設立。

 
国内はもとより、世界各地で植樹を推進する現場主義の植物生態学者として、これまで国内外1700ヶ所以上で植樹指導し4000万本以上の木を植えている。

徹底した現場調査から、その土地に自生し、最も安定して存続する樹種群(潜在自然植生)を探し出し、それらの苗を育て、多種類の苗を密植・混植させ、自然の成り行きに任せて競争・共存させ、自然の森のような状態に植える手法を提唱、実践している。それまでは何百年もかかるといわれていた森の再生が、その手法によって十数年という単位で成功することを証明した。

地球規模の森林破壊や地球温暖化が加速、自然のゆり戻しである大災害にも負けない豊かな森を再生することを緊急の課題とし、すべてのヒトのいのちと心と遺伝子を守り、地域、経済、豊かな社会を支えるいのちを守る本物の森づくりいのちを守る森の防潮堤づくりを提唱している。


 杉並の「どんぐり育て隊」は主に高齢者の活動ですが、東京の防災対策としてだけでなく、こどもたちとの協業活動としての「どんぐり」育てをしているNPOや杉並区で苗を育てた後に東北の山に植樹する東北支援のボランティア組織等さまざまな取り組みが豊かに行われています。


 地域のこどもがおとなたちと一緒に学びながら地域の実態を観察して「どんぐり」や「苗」を育てそれが防災、東北支援、孤立予防、健康作りなど社会的な貢献をしているという実感が得られるとすばらしいなと考えます。そのために団塊の世代のひとびとが必要とされています。

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 団塊世代の人こそ災害時に中心的な役割を

 30年以内に60%の確率で南海トラフ大地震が発生し、地震の揺れの後に太平洋岸には10分以内に瀬戸内側には2時間以内に津波が押し寄せます。四国の各県では2013年3月に発表された内閣府の第2次報告を元に対策を立て県民に公表しはじめています。高知県ではこれまでに津波避難空間の整備計画(津波避難タワー117 避難場所1354 整備 2013年2月時点)で死者予想53000人を42000人に減らすことができる、津波からの早期避難率を100%目指すことによりさらに被害を減らすこと等を目指しています。また負傷者36000人のうち20000人が重症で発生翌日までに人口75万人のうちの6割、451000人が避難すると推計しています。

 

 徳島県では地震発生から6分で徳島南部に20数mの津波が押し寄せ、最大予想死者数は31000人と発表されています。地震発生後10分以内に避難すること、耐震化率79%100%にすることなどを目指しています。

 

 愛媛は地震津波予想を5月末、建物人的被害を8月、経済被害を10月にまとめるとしておりその発表には慎重となっています。伊方原発を抱えているために対応方針の発表には四国の中では一番慎重になっているのではと推察されます。それでも内閣府の発表では愛媛県人口の38%にあたる54万人が避難すると予想されています。

 

 さて香川県には2時間以内に3−4mの津波が押し寄せ、冬の深夜で早期避難が困難な場合を想定すると最大で3500人の死者と23000人の負傷者、22万人の避難者数が予想されています。

 

 このような想像を絶する数字を前にして私たちはどのような準備を行えばいいのでしょうか。東日本大震災の教訓を今こそいかすべき時です。香川県では地震のゆれが治まったら2時間以内に4メートル以上のところに100%の県民が避難できる計画を今、作ること。そして、自分で避難できない人も含めて避難する訓練を日常的に行うこと。瀬戸内海沿岸には最初の津波が地震発生から2時間後に到達した後、その後も何時間にも渡って津波が連続的に押し寄せることが予想されています。

 

 1日目を生き延びた後は傷病者や要介護者、孤立者などの手当、介護などに組織された多くのボランティアが関われるよう今から準備が必要です。

 定年を迎えて目標を定めきれていない団塊の世代の皆さんが来るべき大地震の到来に向けてその豊富な経験を生かすことができるよう私も医療介護の専門家として何かお役に立ちたいと思っています。



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 これまでの原稿に書いたように1954年生まれの私にとって幼小児期から学童期にかけて病院にかかった記憶は数えるほどしかありません。川に飛び込み空き缶で足の裏を切って隣町の外科病院で縫合処置を受けた事、小学校の帰り道、神社の境内で白いへびを発見し、そのめずらしさに捕まえようとして足をかまれマムシの血清を打たれた事、あとは中耳炎になって隣町の耳鼻科に母親に連れられて通院した事くらいです。これほど私にとって病院は遠い存在でした。今になって思うのは保険証がちゃんとあったのだろうかということです。


 日本全国では1955年頃まで、農業や自営業者、零細企業従業員を中心に国民の約3分の1に当たる約3000万人が無保険者で社会問題となっていました。その後1958年に国民保険法が制定され、61年に全国の市町村で国民保険事業が始まり。「だれでも」「どこでも」「いつでも」保険証1枚あれば医療を受けることができるようになりました。


 その後1970年代には全国で老人医療費無料制度が広まり、サラリーマンの医療費窓口負担は最初ゼロでしたが、1980年代になり次第に1割負担から2割となり、現在では3割負担となっています。2013年の現在、国民保険料を払えず、病院への受診が手遅れになり死亡する人が年間数十人もいることが報告されており、国民皆保険制度は危機的な状態となりました。


 このように、団塊の世代の人たちは戦後の保険のない社会保障制度の貧弱な時代、1961年以降の国民皆保険制度の開設と充実の時代、その後の抑制の時代をすべて経験しているのです。言い換えれば貧しくて病院にかかれない時代、保険証さえあれば医療費の心配をしなくてもいい時代、保険証があっても窓口負担が3割ある時代などのすべてを経験しているのです。社会保障制度の歴史的証人としても今後の日本の社会保障制度をどのように設計すればいいのか発言する責任があると言えます。

 私自身は窓口負担の心配なくいつでも必要な時に医療が受けられるような制度をさらに充実させることが必要だと考えています。

 

 

 


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  ふるさとはいうまでもなく自分の生まれた土地の事を指すのですがさらには山、川、海などの風景、うさぎやふななどの動植物を食べるために追いかけた思い出、現在もそこに生活をしている父母や幼な友達などの情景をすべてふくんでいます。下に文部省唱歌『ふるさと』を引用します。

1.           うさぎおひし かのやま


  こぶなつりし かのかわ


  ゆめはいまも めぐりて


  わすれがたき ふるさと


2.           いかにいます ちちはは


  つつがなしや ともがき

  あめにかぜに つけても


  おもひいづる ふるさと


3.   こころざしを はたして

   いつのひにか かへらん

   やまはあをき ふるさと


   みずはきよき ふるさと

 

 この歌詞はふるさとを遠い都会で思い浮かべながらそれでも自分の夢を叶えて成功するまではそう簡単には帰れない。きっと帰ろうという心情を歌っています。団塊の世代の人たちの多くはふるさとを離れ、都会で働き1960年代以降の日本の高度経済成長を支えてきました。定年を迎え、故郷に帰ろうとしている人が17%、都会に住み続けたいと考える人が83%という統計があります。ふるさとが昔のように住み易い場所としては考えられないというのがその理由のひとつです。いっぽう2011年の東日本大震災以降、この歌「ふるさと」が口ずさまれるようになりました。ふるさとのひとびとの絆をもう一度とりもどして再興をめざそうという決意や原発事故によりふるさとを失いながらもいつかは帰ろうという気持ち等をこめて歌われているものと思います。

 都会で年をとっていく団塊世代、ふるさとにUターンする世代も含めて、今後の人生をどこでどのように住んでいくのかを模索している人々が多い時代です。できれば、新しい土地で生き甲斐のある社会に貢献できる人生を送れるような多様なプログラムが準備されていいのではないかと考えます。ふるさとに帰ってからもこころざしを追い求める時代なのです。




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  子供時代のことを原稿に書いているためか急に自分のルーツを訪ねてみたくなりました。

 上の写真は香東川の上流です。高松空港の侵入灯の下あたりですが水は澄んでいて陽光に水面がきらめいています。鳥たちの声が近づく春を待ち望んでいるようでした。

 小学校の低学年の頃、兄や多くの友達と一緒にこの川に飛び込みました。いつの時代かこの川で溺れ死んだ子もいて、河童に足を引っ張られるという言い伝えもあり、飛び込み石の近くには地蔵尊も祀られていました。水中めがねでのぞきこむ川床には小さな魚たち、貝、カニなどがうごめいていて神秘そのものでした。

 信じられないかもしれませんが、近所の大人たちが霞み網を(かなり細い糸で編んだネット)を3m以上の高さの竹竿で空中にスクリーンのように張り、すずめの大群を待つこともこの川の近くの畑で経験しました。網の小さな穴にひっかかったすずめを当然焼いて食べたのです。

 スクリーンと言えばまちには急ごしらえの青空映画館ができました。白い布製のスクリーンを屯所という消防場、集会所の前の広場に張り、無声映画(多くは時代劇)が上映されました。その後、テレビを買う家が出現。家の庭先に近所中の人々が十数人は集まっておとなもこどもも一緒になって大相撲、プロレスなどに熱中しました。

 小学校にプールができたのは6年生の時でした。それまでは学校の水泳教室は香東川で行われました。その川は下の写真ですが上の写真の下流1kmあたりのところです。川岸に学校のテントが張られ、学校から川までみんなで並んで歩いていき、川縁で水着に着替え、先生の指導のもと泳いだものです。

 ある時、学校の授業とは別に私は近所の友達と一緒にこの川に行き、思い切り飛び込みました。その時、左足の裏に激痛が走り、川が真っ赤に染まりました。缶詰の缶を踏みつけてしまったのです。父兄たちが水泳教室の前に川底を清掃していたのですが。。。わたしの足裏の皮膚がぱっくりとめくりあがり、黄色い脂肪が見えています。手ぬぐいで足をしばり、友達の自転車の荷台に載せられ、私は自宅に搬送されました。自分の住むまちには医療機関がなく、私は親の自転車に乗せられ隣町の外科医院で縫合処置を受けました。

 その傷跡はいまも私の左足裏に5cm大のV字となって残っています。




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  団塊世代の幼少期はほとんどの子供たちがおなかをすかせていました。おやつといえばいも、まめ(そら豆のいったもの)などでした。少し贅沢なものとしてはかりんとう、小麦粉を練ってフライパンで焼いたものなどがありました。

 ところが、子供たちは山や田畑になっている木の実(桑の実、しいの実、やまぶどうなど)やさとうきび、すずめ、いなごなど、 川ではふな、こい、どじょう、うなぎ、なまず、沢ガニ、ざりがに、食用がえる、ため池ではからす貝など自然から多くの豊富な食料を自分で確保していました。おやつは山や川にあり、母親に作ってもらったりするものではなく自分で確保するものだったのです。


 私は1954年に今の高松空港のあるまち、香南町で生まれました。昭和でいうと29年で団塊世代の後期にあたりますがここに挙げた食料のほとんどを自分で確保し、食べた経験があります。


 小学校低学年のことです。学校からの帰り道には神社の森があり、神社から少し下ったところには私のすねの半分くらいがつかるくらいの深さの川が流れていました。この学校から帰り道の500mくらいの地域が格好の遊び場でした。神社の木の上に秘密基地と称した小屋を仲間たちと作り、川では手づかみで小魚をとりました。川の中にそおっとつま先で入り、めぼしい大きさの石をはぐりながら手を差し込んだ時に触る魚の感触は今でも鮮明に思い出すことができます。


 ため池や小さな堀でもよく遊びました。今の大人たちが聞いたら仰天するかもしれませんがため池で岸から岸まで泳いで渡るのです。当然足は底には届きません。岸辺にはからす貝と呼んでいましたが、ハイカラにいえばムール貝のような黒い二枚貝が1列にぎっしりと並んでいました。ある時、ため池から裸で岸に上がった時に蜂の巣を踏んでしまいました。いっせいに蜂の大群が私の背中を襲ってきました。あわててじぶんのおしっこを出し、刺されたところに塗り付けたものです。(現在はこの治療法は無効であることがわかっています)


 数年に1回ため池のゆるぬきと称して池の水を放水してため池の水をからっぽにする行事がありました。この時は村じゅう、まちじゅうのおとなやこどもがため池の堤防に待ち受けます。池の水が次第に引いて行くと、こいをはじめとする多くの食料が目の前に現れてくるのです。てづかみでこの食料をみんなでわいわいとばけつやたらいの中に放り込んでいきます。この時の興奮も忘れることができません。



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  団塊世代の生まれた昭和22年の日本人の平均寿命は男50.06 女53.96歳でした。つまり、生まれたばかりの赤ちゃんは50歳くらいまでしか生きられない時代だったのです。平均寿命が50歳という数字を現在に当てはめてみると南アフリカの2004年の平均寿命とほぼ一致します。つまり、終戦直後の日本の状態が今現在の南アフリカに等しいと考えられます。


 ちょうど私の友人がJICA(独立行政法人 海外協力機構)に勤務していてこの12月から南アフリカのマラウイという国に赴任しました。彼はその地で電力を供給する事業に従事するとのことですが、国内の産業は農業がたばこ、メイズ、茶、綿花、ナッツ、コーヒー
生産で工業が繊維、石鹸、製靴、砂糖、ビール、マッチ、セメントなどの生産の国です。国民の80%が農業に従事し、一人当たりの生産(GNI)は290米ドルです。水やエネルギーの供給が不十分です。国民の衛生状況や健康状況が推し量られます。


 日本の戦後の衛生状況も同様でした。国土の46%が廃墟となったところに500万人を超える兵隊と引揚者が帰国し、人口密度が当時世界でも3番目の状況でした。食料も水も十分でなく国民は毎日の生活が精一杯の状況でした。よく戦後生まれの人から「米軍からチョコレートをもらった」「やまで椎の実やぶどうなどを食べた」「すいとんを食べた」「いつもおなかをすかしていた」という言葉を聞きました。


 貧しくて衛生状況が悪く人口が過密な状況に加えて新しい出産によってさらに人口が急増してその矛盾がさらに増大したのが終戦直後の数年間、団塊世代の生まれた時代であったといえます。


 ところが急速に増加する出生数が昭和20年代の後半になって急ブレーキをかけられます。人工妊娠中絶の急増が原因です。私は昭和29年生まれですがこの年には1769580人の出生に対して1143059件の人工妊娠中絶が行われています。報告されない数字が当然見込まれますので実際の人工妊娠中絶数はこの数字を超しているものと考えられています。優生保護法という法律で人工的に人口増加を抑制してしまったのです。このような法律を実施したのは世界でも日本だけ、平成24年現在少子高齢化の苦難を味わっているのは戦後人工的に人口を操作したことの結果ともいえます。また団塊の世代の人々はもしかしたら生まれなかったかもしれないいのちを生きてきた世代ともいえます。




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  診察室での60才代の男性との会話

 

「団塊の世代の人は香川県では50才代の1000人に3人死亡するのと比べて100人に1人と一気に死亡率が3倍に増えるのですよ」

「それは育ち盛りの大事な時に栄養のあるものはとっていないし、さらにはサッカリンみたいな有害な人工甘味料もたくさん食べたから仕方ないでしょうね」

 団塊世代は狭い意味では1947年から1949までに生まれた世代、広い意味では1946年から1954年までの9年間に生まれた世代をさしていますが、一体団塊世代のひとたちはどんな状況で生まれ、どんなものを食べて成長したのでしょうか。

 団塊世代の父親は大正生まれ、戦争中に徴兵され、ある人はソ連に抑留された後に戦後数年間かけて続々と日本の故郷の土を踏んだ人たちです。戦地から帰還した男性が結婚し、生まれたのが団塊世代のひとびとであり、第1のベビーブームと呼ばれています。食べるものが少なくまして甘いものが極端に少なく人工甘味料が大量に世の中に出回ったというのが実情です。以下に引用します。

 

第二次世界大戦と敗戦により、状況は一変します。敗戦により台湾、沖縄を失い、日本の砂糖産業はまさに 「ゼロ」 になりました。戦後すぐは、原料糖の配給が行われましたが、その量はわずかで、国民は甘いものに飢え、サッカリンやズルチンといった人工甘味料がもてはやされました。ダイナマイトの原料で、心筋梗塞の薬であるニトログリセリンは甘味があるため、戦後の食糧難の時代には甘味料として使用され、多くの中毒者を出しています。国は昭和21年にはサッカリンやズルチンの使用を公認し、昭和22年には、専売制にして国庫に貢献させています。つまり、砂糖の代わりに人工甘味料を大量に使う時期です。「人体に有害」は脇において、国民に甘味を与え、国庫を潤すことが優先されたのです。事実、戦後から数年間は、人工甘味料の消費が砂糖を上回っていました。

http://www5.plala.or.jp/nijiya231-9288/Q_A/hatake_03/hatake_0343_tikuro.htm

 

 話はそれますが世界中で人工甘味料の研究開発がこれまで行われてきていてある時は政府が管理し、国税の元としたり、個人の巨万の富の源泉となったり、ある時は健康上の問題で規制されたり、最近ではダイエットの目的で使用されたりしています。たばこ、アルコールの歴史と同様に甘味料の歴史にも深いものがありそうです。現在も広く深く甘味料は私たちの生活に浸透しています。




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  2007年から団塊の世代の人たち670万人が全国で一斉に定年退職を迎えました。

 この世代は社会的には高年期への準備期であり、身体機能が徐々に低下して行く時期です。また集団としてはがんや心疾患で入院する回数が増え、健康が気になり始めます。また高年期への準備期間でもあり、趣味、健康問題、親の介護などで地域社会のネットワークに参加したりしながら老後の生活設計を行って行く時期でもあります。

 香川県でも61歳から65歳の年齢層の人口が一番多くなっており、この人々が地域社会でどのような役割を果たしているのか、あるいは個人の生活をどのように形成しているのか、どのような意識や指向をもっているのか、次の世代にどのような価値を伝えようとしているのか等が多いに興味が持たれるところです。

 平成23年簡易生命表によると60歳の男の余命は22.7年、女28.1年となっております。65歳では男18.7年、女23.6年です。つまり団塊の世代にとって残りの人生の期間(男18-20年 女23-28年)をどのように過ごすかが問われてくるのです。

 一方で定年退職後にゆっくりと人生を夫婦水入らずで過ごそうと考えていた矢先に末期がんにかかり、あっという間に鬼籍に入った患者さんも何人も見てきました。平成22年10月から23年9月までの1年間で香川県では60−64歳の方が617人/53009人(1.16%)死亡しました。ちなみに55歳から59歳までの死亡の276人/77515人(0.35%)と比較してその絶対数も割合も急増しています。

 60才代を迎える前に一度全身の健康チェック、がん検診などでまず自分の健康状態をしり、修正すべき目標を設定することが大切だと改めて考えます。ところが定年を契機に会社の健診もなくなり、自分でわざわざ出向くこともせずに健康チェックから遠ざかってしまうのが現実です。

 団塊の世代にこそ毎年の健康チェックを勧めたいと思います。



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  香川県の住宅政策について社会資本整備総合計画より要約してみます。
*「カッコ」内は、引用。


「香川県の高齢化は全国平均を大きく上回っており、農山村漁村の過疎化、都市中心部の空洞化も見られる。香川県の総住宅数は約44

6千戸、総世帯数は約37

5千世帯であり、総住宅数は総世帯数を上回っており、量の上では充足しているといえる。しかし、昭和55年以前に建築された住宅の割合を見ると、38.5%と全国値 32.0%を上回っており、安全性や居住性の面で低位な状況にあるため、非成長・成熟社会におけるストックの有効活用が住宅政策において重要になっている。

 「県内の公営住宅(県及び市町営住宅)は約15,700戸のストックがあるが、それらの約2分の1は昭和40年代以前に建設され、老朽化が進んだ住宅ストックである。 1世帯あたりの住宅数は1.18戸で、量的には確保されていること、昨今の深刻な財政状況等から、住宅ストック全体の水準を引き上げてストックを有効に活用していくことは、本県における住宅施策の基本的な課題となっている。今後は、計画的な改善等を実施し、適切に維持管理をして既存ストックの有効活用を図る必要がある。



 具体的な計画としては、

「既設公営住宅において、外壁改修による長寿命化型改善や3点給湯方式対応による居住性向上などの改善事業を行う。 共用部(階段、廊下)に手摺やEVを設置し、高齢者等の安全性や利便性の向上を図る。 公営住宅等の長寿命化が図れるよう、長寿命化計画を策定する。


 つまりは公的な住宅政策としては財政事情が豊かでないので既存の老朽化して余っている住宅をリニューアルして有効利用するというのが中心です。平成23年から27年までの5年間で約21億円の予算が組まれています。特別養護老人ホームの新設や公的な住宅の新設の計画はありません。一方で民間の有料老人ホームや高齢者住宅がまちの至る所で新設されています。介護付きの住宅の多くは月の入居費用が10−20万円と高いのが問題です。

 超高齢化社会に向かい、公的政策では既存の建築をリニューアルし、民間では新設ラッシュという2つの方向の建設が現在すすんでいるところです。公的な住宅は私たち県民の税金で作られたものです。老後になっても利用しやすいような公的住宅の整備を求めて多いに声を上げて行く必要があります。



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